貴重資料コレクション 郷土作家の自筆原稿

細田民樹(ほそだたみき)(1892〜1972)

解説

 小説家細田民樹は、明治25(1892)年1月27日、東京府葛飾郡瑞穂村(現・東京都江
戸川区)に父 可樹 (よしき ) 、母もと子の長男として生まれた。六歳の時、父が実家の医業を継ぐため広島県山県郡壬生村(現・北広島町)に移住。県立広島中学校(現・県立広島国泰寺高等学校)時代から文学に親しみ、「文章世界」「創作」等の投稿雑誌に作品を送るようになる。明治44(1911)年、早稲田大学英文科予科に入学。「泥焔」(大正2年7月)、「男」(同3年2月)などの小説を「早稲田文学」に発表。大正4(1915)年、同大学卒業後、広島騎兵第五連隊に入営し、大正7(1918)年に除隊するまで3年間軍隊生活を送る。大正13(1924)年に改造社から、それまで発表していた、軍隊体験にもとづく連作短編「初年兵江木の死」(大正9年2月)、「或兵卒の記録」(同年4月)、「凱旋」(大正10年1月)などの作品をまとめた『或兵卒の記録』を刊行、大きな反響を呼ぶ。この作品は、軍隊内部を批判的に描いたもので、野間宏の『真空地帯』(河出書房、昭和27年)に先行する作品として注目される。昭和2(1927)年から同6年まで労農芸術家連盟に参加ののち、日本プロレタリア作家同盟に加わる。昭和5(1930)年、『真理の春』(中央公論社)を刊行。その続編を「中央公論」に連載したが、執筆禁止にあい未完に終わる。昭和19(1944)年に郷里に疎開。昭和20(1945)年12月、栗原唯一・貞子夫妻を中心として発足した「中国文化連盟」に顧問として参加、昭和21(1946)年3月、「中国文化」〈原子爆弾特集号〉を創刊。昭和24(1949)年に上京するまで、広島県の文化活動において指導的役割を果たす。昭和24年、原爆の悲惨とそこからの再生を描いた『広島悲歌』を世界社より刊行。晩年の一時期(昭和40年から3年間)タイで過ごした。

(広島大学名誉教授 岩崎文人)

文学の粗悪商品化(エッセイ)

 ペン書き。中国文化連盟製400字詰め原稿用紙18枚。「中国文化」昭和22年3月号に掲載されたもの。「中国文化」は、昭和23(1948)年7月、18号で終刊するが、同年11月、「リベルテ」と改題して5号まで発行された。戦後間もなく創刊された県下のおびただしい同人雑誌の中でも、「中国文化」は、最も意識の高い優れた文芸雑誌であった。
 内容は、最初に満州事変から敗戦までの文学状況を批判的に俯瞰し、次いで敗戦後1年余の文学(永井荷風、坂口安吾、石川淳、平林たい子、中條百合子ら)とその特質について述べ、最後に「中国文化」に掲載された同人作品のうちから注目される作品を取り上げ批評している。同人評は、仲間内のなれ合いからは遠く、客観的で適確な、時として厳しい指摘・批評がなされている。

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