貴重資料コレクション 郷土作家の自筆原稿

佐々木基一(ささききいち)(1914〜1993)

解説

 評論家佐々木基一(本名永井善次郎)は、大正3(1914)年11月30日、三原市本郷町に、米屋、肥料業を営む永井菊松、スミの四男として生まれた。姉の貞恵は、原民喜の夫人。昭和10(1935)年、山口高等学校を卒業後、東京帝国大学文学部美術史学科に入学。大学時代、「批評」同人となり、荒正人、小田切秀雄らとプロレタリア文学の研究会を持つ。昭和13(1938)年、同大学を卒業し、文部省(現・文部科学省)社会教育局、日伊協会などに勤務。映画評論を「映画評論」に、文芸評論を「現代文学」「日本評論」などに発表。昭和21(1946)年、荒正人、小田切秀雄、本多秋五、平野謙らと「近代文学」を創刊。原民喜にこの雑誌に載せる原稿を依頼、原民喜は短編「原子爆弾」を寄せるが、検閲を考慮し、掲載されなかった。「原子爆弾」は、タイトルを「夏の花」に変更し、一部削除ののち、昭和22(1947)年、「三田文学」6月号に発表された。昭和23(1948)年、最初の評論集『個性復興』(真善美社)を刊行。昭和37(1962)年8月、「群像」に「『戦後文学』は幻影だった」を発表。昭和38(1963)年、中央大学講師(40年、教授)となり、昭和60(1985)年まで、教壇に立つ。平成2(1990)年、『私のチェーホフ』(講談社)により、野間文芸賞を受賞。評論活動の一方、小説執筆に対する意欲は衰えることがなく、昭和55(1980)年には、講談社より『鎮魂―小説阿佐谷六丁目』を刊行し、ライフワークとなった『停れる時の合間に』(「近代文学」他、昭和21〜59。河出書房新社、平成7年)は、未完ではあるものの一五〇〇枚にわたって書き続けられた。
 なお、昭和26(1951)年3月13日に鉄道自殺した原民喜の告別式は、阿佐谷の佐々木基一宅で、「近代文学」「三田文学」合同葬のかたちで行われた。

(広島大学名誉教授 岩崎文人)

死によってしか答えられぬ問い―原民喜全集刊行によせて―原(エッセイ)

 ペン書き。400字詰め原稿用紙5枚。「安藝文学」第19号〈「ヒロシマ・広島われわれの記録(6)」特集号〉(昭和40・11)に寄稿されたもの。「安藝文学」は、昭和33(1958)年5月、岩崎清一郎、川島義高によって創刊された、県内で最も質の高い同人雑誌の一つで、平成23(2011)年9月、節目である80号〈記念特集〉を発行している。
 芳賀書店から昭和40(1965)年8月に刊行された「原民喜全集」全二巻(佐々木基一、草野心平、丸岡明他監修)は、昭和28(1953)年3月に角川書店より刊行された「原民喜作品集」全二巻(佐々木基一、佐藤春夫、山本健吉他編纂委員)につぐもので、原民喜の最初の全集である。原稿は、全集刊行に至る経緯が記されていると同時に、原民喜の最もよき理解者であった佐々木基一が、原民喜の作品のうち、原爆文学とともに童話作品を高く評価していることが注目される。

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